縛りが外れる 死後処置編 ~なつこ~

普段、看護師の仕事をしているなつこです。

時代の流れもあり、90歳前後の高齢者の方をたくさん看ています。

積極的な治療を選択せず(苦しい時間が長く続くだけなので)、

そのまま看取りとなる方もたくさんいます。

 

そんな職場で、先日、また私の縛りが一つ外れました。

 

 

ある老人が亡くなり、

上司と私が死後処置に入りました。

その上司と死後処置に入ったのは初めてでした。

(※死後処置:死亡確認後、遺体から点滴などの管を抜く、糞尿など漏れそうな体液がある場合は出し切る、痰を吸引、体を拭く、口腔ケア、入れ歯を入れる、髭を剃る、白装束を着せる、化粧を施す、髪を整える、体位や全体を整えていくこと。)

 

 

それまでの私は空気を読んでの事もありますが、

どこかで死後処置中は笑ってはいけないような気がしていました。

ところが!!!

その上司と処置をした時、

自然な笑いが多く(ちゃかした笑いではありませんよ。)

ものすごく明るい楽しい死後処置の時間となりました( *´艸`)

その上司は普段から自然体でほんわかと明るい方であり、

働いている時間が一番長く、責任が重い立場にもかかわらず、

風邪一つひかず、「あんまり疲れないのよね~^^」といつも楽しそうな人なんです。

(ありようのおかしい人にたまにブチ切れてる時もありますがw)

経験も豊富でおそらく死後処置も100回以上されていると思います。

慣れた処置であっても機械的な様子は無く

むしろ

遺体に触れるその手は

自分の顏や大切な人に触れるような温かさにあふれていて

自然に手に油を載せ

遺体の乾燥した顔や髪をなでて

なめらかにして

「あら~、元気な時はきっとこんなお顔だったんだろうね~♪」

「よく頑張ってらしたね。」と。

生きているときと同じように明るく話しかけながら進めていきました。

 

 

なんてなんて明るく楽しい時間なんだろうと。

死後処置中は笑ってはいけないとか、

おごそかにというフレーズが

パーーーンっとはじけました(*´▽`*)

そして、心がほんわかしました。

 

 

明るいみとり

明るい死後処置

明るい葬式(←あっても無くてもどちらでも良いんですが。)

 

嘘っぽく泣いてる人もよくお見かけしますが、

本当に哀しい人は哀しみきったら善いし

哀しみきったら

自然体に明るい気持ちで送ってあげた方が

肉体から離れた魂さんもきっと観ていて嬉しいだろうなと。

きっとまだ近くに居るんだろうなと

そんな事を思いながらその場にいました。

 

 

同じタイムライン上で

壁一つ隔てたところで待っていた親族は

物理的に我々と近くにいても

もめている様子が聴こえてきました。

 

あ~

生きている周波数帯域が異なると

こんなに違うものかと。

 

人生の最期において

同じ遺体を中心に動いている

我々と親族。

親族なら笑ってられないよ

血が繋がってないからだ、

と言われればそれまでですが。

単純で無いことは承知ですが

もっと俯瞰して観れば

シンプルな事だと思うし。

 

人って

本当に自分で概念(縛り)を作り上げて

その中で生きているなと。

誰のせいでもなく

自分で、世界を作り上げているなと。

 

 

死も生の一部であり

総決算といいますか。

自分のこととして

考えさせられる事が多いです。

 

少し話がそれましたww

 
 


【ま~やのコメント】
家族の死と遺族について
>生きている周波数帯域
でまとまるような単純な話ではないので
私から少し補足させていただきます。
 
“死”とは
一人分の“魂”エネルギーが
この世からあの世に移動するわけでして
その際に何が起こるかと申しますと
 
家族というホメオスタシスや
関係性という縁起が大きく動きます。
突然お一人欠けるとそのバランスが見事に崩れるんです。
家系のエネルギーに変化が出るんですね。
 
そして、
他界された人物が自分との縁起が近かった人物であるほどに
バランスが崩れますね。
おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなるのと
お父様、お母様が亡くなるのと
ご主人、奥様が亡くなると
お子様が亡くなるのとでは
それぞれダメージ度が違います。
 
更に、
亡くなられた方の入院生活が長ければ長いほどに
御遺族の精神的、肉体的、金銭的な疲れがドッと出てきますしね。
 
だからか入院生活、死の瞬間、葬儀…
という瞬間、場面では
普段とは違ういろいろな出来事が起こります。
 
普段ならば冷静沈着な方であっても突然イライラし出したり、
親族間のこれまでの数々の不満が爆発したり、
お金のトラブルなどもなぜかこのタイミングで浮上したり、
「こんな時にそんなこと言わなくてもいいのに…」というような内容を
言ってしまう親族が必ず一人くらいは出てきたりするものです。
 
普段の生活で手一杯の親族にとっては
入院生活の世話はとても負担だと思います。
長期になればなるほどその負担は重たくのしかかってきます。
 
とにかく
“人の死”というものを
 
どの立場から観るか
どの角度から観るか
どの次元から観るか
 
ですね。
 
自分が善悪、高低のある帯域に住んでいるときは
自分が悪、低だと見える光景、状態、人を
責めたり、裁いたりします。
 
しかし、自分も同じような体験をしたり、
様々な体験から学び
善悪、高低の帯域から一つ上の帯域に上がれたとき
以前とは違う
立場、角度、次元からすべてが俯瞰が出来るようになります。
すると
何事もまろやかに丸く見えてくるから不思議。
以前は責めたり、裁いたりしていた光景、状態、人を
まるで愛しい幼子を見つめるように眺めている自分に気がつくかもしれません。
 
二元論は宇宙にあるのではなく
我々一人一人の心の中にしかありません。
 
終わります。



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